好きな時に 思い出してね [すきなこと]

こんばんはー。
ややこです。
















江國香織の「思いわずらうことなく愉しく生きよ」が読みたくて、ぜったい持ってたのにどこにもない!と途方に暮れていたら、床にうずたかく積まれた雑誌の山のてっぺんに(わたしの部屋には、文庫本とハードカバー用の本棚がちゃんとあるにも関わらず)鎮座していらして、驚いた。


ともかくとして、これで読むことができる。


わたしは、江國香織作品がすきで、いちばんすきなのは、一も二もなく「きらきらひかる」なのだけれど、ほとんどの作品のことが、すきだ。それぞれに、愛している。

にがてなのは、「なつのひかり」。なんでだか、いたたまれなくなる。

「落下する夕方」は、すきだけれど、自殺のシーンがやけにリアルにまぶたのうらに浮かぶ。そこのシーンだけは、いつ読んでもおぞけがたってしまう。だから、持っていない。きっともうじき買うけれど、いつも手にとっても、ちゅうちょしてしまう。







江國香織がえがく女たちは、ほとんどすべて、「独り」だ。男がいようと、いまいと。むしろ男がいる女たちのほうが、ずっと「独り」だ。圧倒的に。

彼女たちは、依存しない。自分のなかに流れる時間のなかを、生きている。男に甘えることもあるが、媚びない。自分の意思というものが、いつも当然のように優先され、重んじられる。自分のなかの秩序に従って、行動する。

つまり、とっても保守的なのだ。自分の「枠」を超えない。
常識というか、一般的に蔓延っているつまらない固定概念のようなものよりも、自分の判断を芯から信じ、動じない。変わりものなのだ。しかし、どの女もそのことを自覚していない。彼女たちの勇気というか、奔放さ、大胆さ、などから、畏れながらも目を離せない周囲の人間が、その女のことを、「変わりものだ」とさまざまな表現方法で、評するのだ。だいたい、いつも。







わたしも、こういう女たちのように、なりたかった。
男を愛しても、「独り」で居られる女に。
男に振り回されることは、極端に言えば恥ずべきことだと想っているし、恋したくらいで自分が自分でなくなるなんて、冗談じゃないと想う。

でも、まだ、なれないのだ。「独り」に。ああ恰好わる。恥ずかしい。
どうしてこう、てきとうなんだろう。あたしというやつは。自分がないのかしら。
男に粉骨砕身つくすなんてまっぴらだけど、してしまいたい、と想う自分がいるのだ。
どれだけはしたない女なんだか。おまえにプライドはないのか。あるから、つくさないし、まとわりつかないのだけれど。

わたしはまだこのように「自分」が確立できていないので、依存するのもされるのも恐怖だ。そのひとがいなければなにもできない、なんて!そのひとがいなくなると、自分が変わってしまう(もしかしたらこわれてしまうかもしれない)、なんて!

わたしは、自分で制御できないものがきらいだ。不安になって、不安で不安でくるしくて、ほんとうにしにそうになる。アホウのように心配性だから。


いつになったら、「独り」になれるだろう。むりなどせずに、「独り」に。
一生なれないかもしれないし、もしかして、わたしが知らないだけで、それは「性質」なのかもしれない。生まれ持った、「性質」。
元来、望むと望まざるに関わらず、「独り」な女と、そうではない女が、いるのかもしれない。

そうではないから、焦がれるのだろうか。そうかもしれない。ぬぐいきれない。












GO!GO!7188の「恋の奴隷」があたまに流れています。『好きな時に 思い出してね』『あなた好みの 女になりたい』だよ!とんでもねえ!こんなにハラ、くくれないよ。かっけえな、ここまでくると。







それじゃー、また。


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